虫返しコーナーのタイトル
JA8119最後の飛行
JAL123便事件:その1

   JA8119 離陸から異常発生まで

■公式「報告書」はデッチ上げ■

 1985年8月12日、乗客・乗員524人を乗せた、ほぼ満席のジャンボジェット機が墜落した。520人が死亡、わずかに4人が奇跡的に生還した。「JAL123便事故」だ。もう12年になる。若い人には遥か昔の事件に感じられるだろう。あるいは記憶にさえなく、すでに「歴史」になっているかもしれない。私は、この事件をムシ返したい……いや、ぜひともムシ返さなければならない。私の正義感がそうさせる、なんて言えばかっこいいが、残念ながら違う。520人もの死亡者が出た事故を(死者数が1人でも同じだが)、国家がウヤムヤに誤魔化そうとしている事実に腹を立てているからだ。また、この事件が時間の中で歴史化してしまうことに焦りを感じているからでもある。ここで私の抱えている「疑問」を多くの皆さんに公表し、できれば疑問を共有していただければ、それだけでもいいと思っている。
 もちろん私は航空についての専門家ではない(私以下の専門家・評論家も大勢いる。これは断言できる)。また第一線で取材できる立場でもない。だから、私の知識量やデータ量はタカが知れている。自分なりに勉強し、各メディアで報道された内容・公開された資料を溜め込んでいるだけ、ともいえる。ただ、多くの皆さんとちょっと違う点は、後述する事故機のボイス・レコーダ(極秘扱いで、まったく公開されていない)を「聞かなかったとは言わない」関係者の話が聞けたこと、JALの国内線用ボーイング747整備担当の人に、様々な疑問点を説明してもらった経験があること、そして事故を報道するために、連日事故現場上空をヘリで飛んでいたカメラマンから、当時の様子を詳しく聞けたこと、そのくらいだ。
 その程度の知識では、当然ながら事件の真相などわかるわけがない。だから私がこれから提示するのは、事件についての「疑問」と、私なりの「解釈」だけ。とても残念だが、それでも書く価値はあると思う。

 *「事故」と「事件」は違う。JAL123便が墜落した現象そのものは「事故」である。そして「事故」を取り巻く組織や人間の思惑・動き、事故がどう処理されていったかまでを含めたとき、これは「事件」だと考える。

事故調報告書 この事故は、公式には(お役所的には)運輸省航空事故調査委員会(以下、「事故調」)から1987年6月19日付で「航空事故調査報告書」(以下、「報告書」)なるリポートが出て一件落着にされてしまった。報告書では、後部圧力隔壁(後述)が破断し、そこから吹き出た空気で垂直尾翼と機体後部が脱落、機体後部にある油圧系統からオイルが漏れて油圧が働かなくなり、操縦不能に陥って墜落した、という、いわゆる「圧力隔壁説」を主張している。
 しかし、まず断言しておくと、この報告書はまったくの「作文」である。「最初から決められていた結論」を無理矢理に導き出すための「言い訳」に過ぎず、都合の良いデータだけを扱い、少しでも事実がバレそうなデータは軽視するか、最初から記載されていない。誰でも、時間をかけて丹念に読んでみれば(教科書風の記述で読みにくいが)矛盾や疑問のひとつやふたつは見つけられるシロモノだ。上に挙げた三人も(インターネット上では実名は出せない。どんな迷惑がかかるかわからないから。出るところに出れば堂々と公表できる)「報告書は事実に反する」と明言している。
 さらに、事故後10年を経た1995年8月27日、最初に墜落現場を確認した元米空軍兵士の「内部告発」(?)があり(これは次回以後、詳しく書く)、日本政府が故意に救援活動をしなかった事実がバレてしまった。救えば救えた被害者を、そのまま放置し、死ぬにまかせたわけだ。これは「殺人」「大量虐殺」ではないだろうか? 客観的に見ても「未必の故意による殺人」には相当する。こうした暴露があった以上、事故調か警察機構が再調査すべきだと思う。しかし、一件落着したものは放っておくのが政府の方針らしく、誰も何もしていない。暴露された時点で、マスコミが少々騒いだだけ。
 ある人は、米軍兵士の「暴露」は、救援活動に限ったものだという。私は違うと思う。墜落原因、救援、調査、調査結果の報告書、すべてが「何かのキー」でつながっているように思えてならない。事故調報告書は、それを隠蔽するツールである。
 ただ、報告書も一から十までウソではない。たとえば警察がリアルタイムで(利害関係者が妨害する時間がないタイミングで)プレスに発表した事実等は書かれているし、どうやっても改竄できない最小限のデータは記載されている(肝心なデータは載っていないし、載っているデータが改竄されていない保証はないが)。その意味では、報告書も貴重なデータのひとつになる。
 どうして事故調はインチキな報告書を作らねばならなかったのか? 最初から決まっていた「結論」を強引に導き出さねばならなかったのか? 要するに「何かのキー」がわかれば事件の全体像が明白になるのだが、現在のところ、すべては国家秘密のヤブの中。キーは「疑問」と「疑惑」の山に埋もれている。山を切り崩し、ヤブを突っつくためには、多少回り道にはなるけれど、まず事実関係から書いてみよう。

■JAL123便、最後の離陸■

ボーイング747SR-100 JA8119

 あの事件以後、日航は「123」というフライトナンバーを不使用にした。だから、この見出しも間違いではないが、より正確にいうなら「機体登録番号JA8119、最後の離陸」になる。自動車と同様、飛行機にもナンバーがある。墜落した機体はJA8119だった。JAは日本を表わす。8***、つまり8000番台は固定翼(ヘリコプターではない)のジェット機かターボプロップ機に付けられる。
 機体メーカーはボーイング。機種名は747SR-100という。ご存じのように747はジャンボ機のことだ。初就航は1970年。ボーイングの当初の設計では客席数350〜400程度であった。これを日本国内線用に改造したのが747SR。SRはショート・レンジの略で、日本でしか使われていない、極端に安全性を軽視した飛行機だ。短距離路線を飛ばすと、飛行時間に対して着陸回数が多くなるため、着陸装置(脚など)が強化されている。また、国際線にくらべて低空を飛ぶことが多いので、客室の与圧(高空でも地上に近い気圧を得ること。後述)も、高空用と低空用に切り替えられる。SRの仕様は、ここまでは許せる。
 許せないのは客席数を限界を超えてまで増やしたこと。旅客機の定員は、ただ機体の大きさだけでは決まらない。緊急事態の際に、乗客全員が規定時間内で脱出できなければならない。現に英国航空では、最初に747を導入したとき、緊急脱出のテストを行ない、ボーイングの設計では全員脱出は不可能と判断して座席数を減らしている。いかに(親方日の丸ならぬ)親方ユニオンジャックであれ、こういう発想は航空会社としての良識であろう。
 ところがSRと買ったJALとANAは路線バスなみに座席を小さく、座席間隔を狭くして定員増加を図った。事故機のJA8119では529席にまで増やされている。(JALが保有する747には、550席というとんでもない機体もある) 747のドアは全部で12ヶ所ある。よほどラッキーな事故で、12のドアのすべてが脱出用に使えるなら、あるいは迅速な避難も可能だろう。しかしたとえばエンジンの1機が火災を起こしていたら、その側のドアは使えない。6ヶ所のドアに500人以上がパニック状態で殺到する。単純に計算すれば、ドア1ヶ所あたり約90人で、1人が脱出するのに2秒かかるとすると、たしかに3分間で「全員脱出」になる。そんなにうまくいくものだろうか? 機内に煙や炎が無く、6ヶ所のドアがすべて開けられて、乗客全員が「脱出のプロ」なら可能な話、お年寄りや子供がたくさん乗っている現実からすれば机上の空論でしかない。JA8119は、墜落ではなく不時着していても非常に危険な飛行機だったといえる。
 座席増は、もちろん運輸省の認可を受けてのこと。官民一体で利益の追求を優先し、安全性を二の次にしている日本の航空行政が、この一例でもわかる。デッチ上げ報告書がまかり通る底流には、このような官民癒着の構造、人命軽視の意識がアチラ側にある。私はSRに乗るとき、事故があったら逃げられないと覚悟を決めている。エアバスには、別の理由で「絶対に落ちる」と覚悟して乗る。
 JA8119は1974年1月30日に製造された。総飛行時間25030時間18分。総着陸回数18835回。決して新品とはいえないが、オンボロではない。逆に、この程度の飛行機は、初期故障がすべて出つくし、機体固有のクセもはっきりしていて、かえって安全な面もある。人間でいえば30代後半くらいの働き盛りだろう。ただ、事故調は「病気持ち」だったと主張している。1978年6月2日、大阪空港で、いわゆる「尻もち事故」を起こしているからだ。着陸時に機首を上げすぎ、胴体後部を滑走路にぶつけて「中破」(事故調)した事故。何をもって「中破」なのかわからないが、胴体後部の下側が擦れ、「後部圧力隔壁にひびが入った」。このときの修理ミスが、墜落の最大の原因だったと事故調は主張している。

後部圧力隔壁

 胴体の擦り傷など簡単に直せるし、とりあえずの飛行には支障ない。問題は「圧力隔壁」にある。これを簡単に説明しておこう。
 ジェット旅客機は通常、数千m〜1万mの高空を飛ぶ。気温は氷点下にもなり、気圧は低く、空気は非常に薄い。とても人間が生きていける環境ではない。そこで、温度と気圧を地上とほぼ同じ(通常は0.8気圧程度)にするため、強力なエアコン(とコンプレッサ)で機内の環境を保っている。機内の気圧は外気にくらべて高い。いわば風船のようなものだ。高度1万mでは、この気圧差で747の胴体直径は20センチもふくらむという。このように、機内の気圧を上げることを「与圧」という。
 与圧は人間がいる場所を中心に行なわれる。たとえば水平・垂直尾翼の中などは与圧されない。与圧したら尾翼がふくらんで、かえって危険でもある。空港で見るジェット機は「外観」でしかない。その内側に与圧される部分があり、いわば二重構造になっている。簡単にいえば、外観の中に巨大な茶筒が入っている、と思えばいい。茶筒の中に客室やコクピットがある。
 円筒はなかなか潰れない。だから茶筒の円筒部分は比較的強い。困るのは円筒の両端。茶筒でいえば底面とフタにあたる箇所だ。ここには大きな圧力がかかる。1枚の板で塞いだくらいでは機内の圧力に耐えられず、脱落してしまう。そこで「圧力隔壁」なる構造物が必要になる。何枚もの板を扇状に組み合わせ、パラボラアンテナのような形にする。その凹面を内側にして茶筒の両端に付けてやる。これが圧力隔壁。飛行機の前側のものを「前部圧力隔壁」、後側を「後部圧力隔壁」という。123便事件のキーワードになる言葉なので、できればご記憶願いたい。
 尻もち事故では、後部圧力隔壁にひびが入った。全部取り替えるか、きちんと直せばいいものを、このとき修理に呼ばれたボーイングの職人さんたちは、ひびが入った部分に当て板をした程度で「直った」ことにしてしまった。まあ、たしかに「直った」のだろう。初期の無傷の状態にくらべれば強度は下がってはいても、定期検査では空気漏れは発見されず、修理後16195時間以上、着陸回数12319回も無事に飛び続けていた。事故調(運輸省)は、このときの修理にミスがあり、後部圧力隔壁が金属疲労で弱って破れ、それが墜落の原因だ、と主張している。しかしおかしいのは、修理をチェックし、「これでいい」と認めたのは他ならぬ運輸省(東京航空局)。もしも事故調(運輸省)の言うように、修理ミスが事故の直接原因なら、その責任は運輸省にあるのではないか? 誰も謝った形跡はない。

離陸
JA8119 最後の姿 これ以後「飛行機構造の知識」は、話の中で触れるとして、JAL123便の事故がどのように起きたのか、まずは事故調の資料を中心に再現してみよう。
 問題の機体は、事故当日、東京⇔福岡を2往復(4フライト)していた。123便はJA8119にとって5回目の飛行だった。写真は(朝日文庫「日航ジャンボ機墜落」より)4フライトを終えたばかりのJA8119。飛行場で見られた最後の姿になってしまった。
 コクピットクルーは全員入れ替わり、疲労していたとは考えられない。機長:高浜雅己氏、副操縦士:佐々木祐氏、航空機関士:福田博氏。(報告書には以上の個人名は記載されていない。他の資料による) 機長の高浜氏は747操縦士の教官も務めるベテラン、副操縦士の佐々木氏は機長昇格訓練中だった。航空機関士の福田氏はDC-6時代からの古参で、総飛行時間9831時間の経験豊富なエンジニア。このクルーに問題はまったくない。どころか、この人たちが飛ばす飛行機なら私も安心して乗れる。機長は教官、副操縦士はもうすぐ機長、機関士は古参兵。どこに問題がある? (事実、これだけの実力をもったクルーだったからこそ、たとえ墜落という結果になったとしても、操縦不能の機体を30分も空に浮かせておけたのだ)
 123便のフライトプランは以下の通り。計器飛行方式、巡航速度467ノット*1(対気速度)、巡航高度24000フィート、飛行経路は三原(大島)−相良−シーパーチ*2−W27*3−串本VORTAC*4−V55−信太VOR/DME−大阪NDB。大阪NDBまでの所要時間は54分。燃料は3時間15分飛べるだけ積んでいた。
 *1:飛行機の速度は通常「ノット」で表わす。1ノット=1マイル/h。ただ面倒なのは、飛行機や船で使う「マイル」はノーティカルマイル(NM=海里)と呼ばれ、1.852kmになる。これは60マイルで緯度・経度の1度に相当する便利な単位だ。対気速度とは、空気に対する速度で、地面に対する「対地速度」とは異なる。同じ対気速度でも、向かい風の中では対地速度は遅くなる。
 *2:海上での飛行航路では、便宜上、特定の位置に名前を付けている。これはそのひとつで、大島の大体西南西74マイルの位置。
 *3:W27、V55とも航空路の名称。
 *4:VORTAC、VOR、DME、NDBは地上にある飛行支援設備。すべて無線信号による。VORは飛行機に機首方位を知らせる。DMEは、その設備からの距離を教える。VORTACはVORとDMEがいっしょになったものと考えれば正解。VORTAC(ボルタック)は軍用としてはTACAN(タカン)と呼ばれる。NDBは周囲360度に電波を発射し、飛行機がその上を通過するのを助ける設備で、いわば電波による灯台。
 以上の1〜4は、報告書では日本語の正式名称だけが表示され、意味の説明はない。

 JAL123便は18時04分にスポット(駐機場)を離れ、18時12分に離陸した。乗客509人、乗員15人、計524人を乗せていた。気象状況は良好。関東地方は高気圧下にあり、内陸部では夏特有の雷雲が発生しているところもあったが、飛行経路ではまったく問題はなかった。123便は離陸後、巡航高度を目指して上昇していった。ここまでの飛行管制は羽田が行なう。以後、管制は東京管制区管制所(以下、「ACC」)に引き継がれる。
 離陸約5分後の18時16分55秒、上昇中の123便は「三原を経由せず、シーパーチに直行したい」とACCに連絡してきた。ACCは18分33秒にリクエストを承認した。いわば飛行経路のショートカットだ。気象状態や航空路状態が良ければ、ごく普通に行なわれる経路変更で、これも問題はない。
 旅客機は管制所以外に、自社のコントロール・ルームとも交信する。カンパニーラジオといわれるもので、航空会社ごとに周波数が割り当てられている。18時20分51秒から21分00秒までの9秒間、123便は日航東京支店航務部と交信している。離陸時刻を知らせ、会社から「いってらっしゃい」と見送られている。交信に異常は感じられない。少なくとも、ここまでは何事も起きていなかった、と推測できる。

異常発生

 旅客機には「ブラックボックス」が積まれている。ブラックとはいっても黒くはなく、発見されやすい赤や橙系の塗装が施してあり、事故にあっても比較的壊れにくい胴体後方に設置されている。非常に頑丈な箱で、1100度の高温、1000Gの加速度にも耐え、水中でも48時間は浸水しない。その中身はコクピットの音声を記録するCVR(コクピット・ボイス・レコーダ)とDFDR(デジタル・フライト・データ・レコーダ)。事故機のCVRは4トラックの30分(規定値)エンドレステープを使ったもので、クラッシュまでの約32分間に交わされた会話・通信・コクピット内の音を記録していた。トラックの使い分けは、コクピット内マイク、機長のインカム、副操縦士のインカム、航空機関士のインカムそれぞれに来ている信号。これでほぼすべての会話・通信がテープに残される。
 DFDRは、高度、速度、コクピットでの操縦、それに機体がどう反応したか、機体にかかる縦/横の加速度など19種類のデータがデジタル形式で25時間分記録される。
 CVRとDFDRの詳しい「怪」については次回以降で述べるとして、とりあえずここでは、DFDRのデータに若干の欠落があったり、CVRの音声が聞きにくい点(事故調発表)はあるものの、どちらも完全な形で回収された。回収はされたが、どちらのデータも極秘扱いであり、「生」の形ではまったく公表されていない。日航の同僚機長たちも聞かせてもらえない。
 123便のCVRには32分13秒間の音声が記録されていた。時刻でいえば18時24分12秒から18時56分25秒まで。ということは、カンパニーラジオでの交信が終わった21分00秒からCVR記録が始まる24分12秒までの3分12秒間の音声記録は無い。私としては、あの事故調のことだから、もしかすると記録はあるのではないかと勘ぐっている(後述)。だから公表できないのではないか、とも思う。また、CVRには無くても、ACCとの交信はあるかもしれない。しかし、これも「無い」ことになっている。「無い」と言われれば仕方ない。
 CVRの記録は次のように始まっている。このとき123便の高度は、ほぼ巡航高度に達する23900ft(約7280m)だった。客室内の与圧が絶対に必要な高度だ。

 
24分12秒(スチュワーデス)……たいとおっしゃるお客様がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか?
同15秒(副操縦士)気をつけて
同16秒(機関士)じゃ、気をつけてお願いします
同17秒(副操縦士)手早く
同18秒(スチュワーデス)はいありがとうございます(機関士)気をつけてください

 よくわからない。ただ、かなり注意を要する出来事が客室で起きているらしい。せめて、これ以前の数秒でも記録があればいいのだが……。報告書では、この後17秒間、無音ということになっている。
 
24分35-36秒 ”ドーン”という音
同37秒 [客室高度警報音or離陸警報音]
同39秒 (機長)なんか爆発したぞ
同42秒 (機長)スコーク77
同43秒 (副操縦士)ギアドア (機長)ギアみて、ギア
同44秒 (機関士)えっ (機長)ギアみてギア
同46秒 (機長)エンジン?
同47秒 (副操縦士)スコーク77(ここで「スコーク77」発信)

 ”ドーン”という音とともに異常が発生した。実はこの時点で垂直尾翼の2/3以上と、機体最後部のテールコーン(水平尾翼よりも後の機体部分)が脱落していたのだが、クルーにはわからない。
 37秒に1秒間、客室高度警報音が鳴っている。これは客室の与圧異常が生じると鳴る警報でもあり、離着陸時に着陸装置(ギア)に異常があっても鳴る。同じ音なのだ。機長はまず与圧を心配したことだろう。しかし、それが正常らしいと気付き、着陸装置の確認を機関士に命じている。
 スコーク77とは、飛行機の最高度のSOS、国際救難信号だ。通常の飛行では、管制官がレーダー上で飛行機を識別するために、飛行機ごとに4桁の数字が与えられる。飛行機はレーダーに対し、その数字を発信し返す。しかし、いったんスコーク77にすると、ACCのレーダー上では数字が消えて「E.M.G. JAL123」と表示され、自衛隊などの軍のレーダーには「7700」と映るようになる。スコーク77を発した機体は最優先扱いになり、同じ空域から他の飛行機は追い出されることもあるし、無線も最優先で、ときには専用の周波数が与えられる。スコーク77が発せられると、民間はもちろん、自衛隊も米軍も、可能な限りの援護体制をとる。
 当日、自衛隊、米軍ともに、123便の7700を瞬時にキャッチし、特に米軍横田基地では、即座に緊急着陸の用意と、救援隊の組織を始めている。(自衛隊は「ただ見てただけぇ」みたい。推測の域は出ないが理由はありそう)
 それほど重大な意味を持つ「スコーク77」は、そう簡単に発信できるのもではない。いい加減に発信しようものなら、クルーの降格処分は間違いない。発信にはマニュアルがあり、チェックリストもある。チェックに要する時間は、通常は2〜3分、どう急いでも1分はかかる(日航関係者から直接聞いた)。いかにベテラン機長といっても、勘だけで発信はしない。ベテランであればこそ、チェックは完璧にしているだろう。
 もう一度、上のコクピット記録を見てほしい。”ドーン”という音の、わずか7秒後に機長はスコーク77の発信を副操縦士に命じている。このとき機体はまだ飛んでいたのだ。与圧が抜けて急減圧しているわけでもない(コクピット・クルーは最後まで酸素マスクは使っていない)。客室から「機体に大穴があいた」といった報告もない。クルーが爆発音のようなものを聞いただけだ。この後、機体を操縦する油圧系統が全部ダメになり、機体の制御がほぼ不可能になるのだが、スコーク77発令時には、機長はまだそれに気付いていない。……それなのに何故、7秒でスコーク77なのか?
 どう考えても、機長は何かの予兆を感じていた、あるいは見ていたとしか思えない。そしてリストのチェックも済んでいた。だからこそ、即座にスコーク77を命じたのではないだろうか。そうすると、記録の冒頭の「気をつけて」「手早く」の指示も、当然のことになる。
 スコーク77のリスト・チェックを行なうほどの事態であれば、何らかの報告をACCに行なっていても不思議はない。カンパニーラジオでの交信からCVRの記録が始まるまでの3分12秒の空白。さっき私が「記録はあるのでは?」と勘ぐったのは、この空白の時間帯が原因究明のひとつの鍵になるからだ。ここに、事故調が言う「圧力隔壁説」を否定するような、会話や交信があったとしたら……当然、事故調は隠すだろう。ゲスの勘ぐりと思われても構わない。勘ぐられてイヤなら、オリジナルのCVRテープを聞かせてほしい。自慢じゃないが長年HFのSSBで鍛えた耳、S/Nが0dBよりはるかに悪い音でも言葉を聞き分ける自信はある。
 また、ACCや羽田の各管制も運輸省の機関であることを忘れてはいけない。これらと123便の交信記録テープも残っているはずだが、事故当初から一切出てきていない。報告書の資料には、18時18分38秒までの記録(シーパーチへ直行の承認の確認)までしか含まれていない。その後の、異常事態発生後の交信記録はまったく無い。不自然としか言いようがない。
 再三書いてしつこいが、CVRテープの非公開・極秘扱いは、これだけの大事故では不当だと考える。事故調がいう非公開の理由は「クルーのプライバシー」! 操縦不能の飛行機を必死に飛ばしているのだから、クルーの汚い言葉やののしり声も入っているだろう。それが人間だ。どんな言葉が入っていようと、最後まで乗客を救おうとし、機体を守ろうと試みた努力の尊さが損なわれるとは思えない。事故調が非公開・極秘を押し通したいなら、もっとマシな理由を創作していただきたい。ついでにACC、羽田(東京進入管制=APC)が記録した全テープも公開していただきたい。もちろん無編集で。
   さて。今回はこのあたりまで、としよう。次回は墜落に至る過程と、できれば「圧力隔壁説」を、事故調の論理に従いつつ、完膚無きまでにブチ壊してみたい、と思っている。
 次回も掲載するつもりだが、123便の航跡略図(事故調発表=信頼性は乏しい)を示す。

123便航跡略図  

 

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