History of Recordingのタイトル



第2回


★テープ・レコーダーがやってきた!


 さて、今回の History of Recording はテープ・レコーダーにスポットを当ててみたいと思います。世界初の磁気録音機は1894年、デンマークの Paulsen(ポールセンだったりパウルセンだったりパウルゼンだったり、資料によって表記が違って困る人のひとり。こういう有名人の表記くらいどっかが統一してくれい)が発明したことになっていますが、ここから現在見るテレコに近い形になるまでは長い年月がかかるので、ちょいと省略。現在のテレコに直接つながる製品はドイツAEGが開発したマグネトフォンで、一般へのお披露目は1935年のベルリン・ラジオ・ショーでした。テープは同じドイツのBASFが開発。実は前年のショーで発表予定だったんですが、結局テレコが間に合わなくてキャンセルしたんだそうです。なんか身につまされる人もいるでしょう。

●AEG / BASF / RRG / カラヤン
 AEGは、1883にDeutsche Edison-Gesellschaft (DEG)として設立された総合電機メーカーです。ドイツ・エジソンですからね、由緒正しいもんです。本家エジソンのEdison Electric Light Co.は1878年設立で、1889年にEdison General Electric Co.になり、さらに1892年にはGeneral Electric Co.、つまりGEになります。ですから、AEGの正式名称 Allegemeine Elektricitats Gesellschaftも、英訳すれば General Electric Co.なのです。AEGは、総合電機メーカーだけあって家電製品も多く、コーヒー・メーカーとか電熱調理器の類もいっぱい作っていました。テレコを開発した当時は、ジーメンスに次いでドイツ No.2の電機メーカーになっていたのです。

 一方BASFは元々Badische Anilin und Soda Fabrik AG(バーディシェ染料化学)という染料メーカーでしたが、1925年にヘキストやバイエルなど5つの化学メーカーと共に I.G. Farbenindustrie に統合されています。ですから、磁気テープ製造当時のBASFは実際にはI.G. Farben Ludwigshafen(IG ファーベン・ルドヴィクスハーフェン工場)で、BASFの名前が復活したのは戦後のことです。このBASFテープによる1936年11月19日の世界最初の磁気テープ音楽録音はBASFのホーム・ページで聴くことができます。ここは実際にはBASFの代理店の JR Pro Sales のサイトです。BASFのオフィシャル・サイトのほうは、社史は詳しいのですが残念ながら音資料はありません。 この演奏はトマス・ビーチャム指揮のロンドン・フィルによるものですが、ビーチャム卿はこの音質には落胆したそうです。実は、同じビーチャム/ロンドン・フィルは2年前の1月にイギリスで、かのブラムレインが開発したVL方式のステレオ・レコード(もちろん78回転SP)の実験録音をやっているのです。それに比べたらこのテレコ録音はガッカリするのも当然でしょう。こちらのステレオ実験録音はステレオサウンドから出ている[ヒストリー・オブ・レコーディング]というCDで聞くことができます。
ヒストリー・オブ・レコーディング>
 AEGのテレコはK-1から始まりK-7まで改良が続けられました。前述の世界最初の録音は、おそらくK-1かコンソール・タイプのFT-2によるものでしょう。この初期のマグネトフォンの悲しい音質は、まだ交流バイアスになっていないところに大きな原因がありました。AEGはドイツの放送局の親玉 RRG(帝国放送協会)にも売り込みをはかるんですが、とにかく音質をなんとかせにゃ使い物にならん、ということで、RRGのエンジニア、ブラウンミュールとヴェーバーが研究を重ねて1940年に交流バイアス法を開発して、初めて音楽にも使えるレベルの製品ができたのです。型番ではK-4HTSとK-7ということになります。RRG は1938年の K-4 でマグネトフォンの採用を決め、ドイツ全土の放送局に配備を進めていきます。そして、交流バイアス・テレコをさらに改良しステレオ・テレコまで開発していたのです。LPがステレオになるのは1957年のことですから、その十数年も前に空襲の中でステレオ録音をやるとは、見事な技術屋根性と言うほかありません。戦時下のドイツで RRG が録音したテープの多くは、ベルリンを陥落させた旧ソ連軍によって持ち去られ、長い間行方不明でしたが、最近になってようやく返還されました。RRG は、43年から44年の間に200〜300本のステレオ録音をおこなったと言われていますが、まだその全容は明らかになっていません。しかし、その一端を伝える物として、1944年にベルリンで録られたカラヤンのステレオ録音がCD化されています。<br>
<img src=  このカラヤンの録音は、時期を考えるなら誰もが驚く優れた音質です。しかしこれを、RRGによる同じ年のフルトヴェングラーのウィーン録音と比べると、明らかに音が違います。ウィーン録音のエンジニアはフリードリッヒ・シュナップ、ベルリン録音はヘルムート・クリューガー、という違いはありますが、音質の違いはエンジニアの腕の差ではなく機器の差でしょう。ウィーンに置かれていたのは、他の地方の放送局と同じ旧型、研究開発の本拠地ベルリンにあったのは最新の実験機、というのが納得できる理由のように思えます。

 この頃の録音は最近、仏TAHRAレーベルからCD化されていますから、聴き比べてみるのも面白いでしょう。手元にあるTAHRA盤では、チェリビダッケ(TAH 271,TAH 273)とアーベントロート(TAH 192/3)がベルリン録音、フルトヴェングラー(FURT 1014-1015)とヨッフム(TAH 229)がベルリン以外の録音でした。これらTAHRAの復刻盤は、たいがい曲アタマはヨレっぽいのですが、曲が進むにつれ段々安定してきます。保存状態によるものか、当時のテレコのご機嫌によるものか、興味深いところです。
 
The Young Celibidache
   TAH 271
The Young Celibidache Vol.2
   TAH 273
Harman Abendroth
   TAH 192/3
Furtwangler Inedit
   FURT 1014-1015
Eugen Jochum
   TAH 229

 戦後、AEGはテレフンケンのブランドでテープ・レコーダー作りを再開します。しかも伝統の「マグネトフォン」の名前で、です。戦後のマグネトフォン・シリーズは業務用から家庭用まで多くの製品があり、高音質で知られるスウェーデンのレーベルOpus3も初期の頃はマグネトフォン M-28Cを使っていました。

オーパス3 テストレコーズ1・2&3(ステレオサウンド SSOP-6007)

 

 

 A Selection from Testrecords
      1,2&3 (Opus 3 CD 19500)

 戦後テレフンケン最大にして最後のテレコは、1980年の MTR M-15A でしょう。M-15Aは32トラック・バージョンまであり、まだ日本でも数台のマグネトフォン M-15A が動いているはずで、調整さえしっかりすればかなり良い音がするとか。ただ、マグネトフォンの困ったところは、トラック幅やトラック間隔が微妙に他社とは違うこと。ユーザーがこれにクレームをつけたところ、テレフンケンいわく「ウチがテープ・レコーダーの元祖で、よそは物真似だ。なんでオリジナルがコピー品に合わせなきゃいかんのだ。よそが合わせればいい」…なるほどね。また、交換用ヘッドの入手が難しいので、中古が出ていてもむやみに飛びつかないように。古い機材の場合、交換用の純正部品がないとなかなか苦労します。
 現在、AEGは分割身売りされて、テレフンケンのブランドでは通信用ICなんかを作っています。テレフンケンの石は日本ではトーメンが扱っていますが、さすがにテレコの相談をしても無駄でしょう。

●ビング・クロスビーと AMPEX

 RRG のステレオ・テレコの行方はいまだに分かりません。壊されたか、最初にベルリンに入った旧ソ連軍が持って行ったか…? モノラルのマグネトフォンは、終戦と共に旧型・新型ゴチャゴチャに連合国に持ち去られて各国で研究が進みます。その1台は、ルクセンブルクからリチャード・レンジャーがニューヨークに持ち帰ったものでした。レンジャーさんは、30年代に Rangertone Organ という先駆的な電気オルガンを作って、電子音楽の歴史に名を残している人ですが、結局商売にはならなくて、何か新しい商品を模索していたのでした。1947年、彼は Rangertone ブランドでテレコを発表し、当時、ニューヨークで日曜のラジオ番組をやっていたレス・ポールとジュディー・ガーランドの元に売り込みに行きます。レス・ポールは西海岸に住んでいるわけですから、毎週19時間もかけてアメリカの東と西を往復していたのです。レス・ポールはレンジャーをビング・クロスビーに紹介し、ビングは即50台欲しい、と言ったんですが、レンジャーは年に1台しか作れない、と正直に言ってしまいます。レス・ポールもインタビューで言っていましたが、ちょっとこの人は商売っ気がなさすぎますね。しかも旧型マグネトフォン・コピーのこのマシンは、音質も良くなかったようです。

 ビング・クロスビーがテレコに興味を持ったのにはわけがあります。1946年5月までNBCラジオで「クラフト・ミュージック・ホール」という音楽バラエティー番組を生放送でやっていたビングは、週に一回の生放送に疲れ、ABCに移ったばかりでした。ABCは録音を放送に使うことを許したからです。でも、最初の年(1946-47)は散々でした。当時、放送局で「録音」といえば16インチ・33 1/3回転のトランスクリプション・ディスクのことです。レコードはまだ10インチ・78回転のSP盤の時代ですが、放送局などでは長時間録音の必要性からトランスクリプションを使っていたのです。これは元々映画製作用に開発されたもので、1926年に WEがトーキー用に開発し、翌年の世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」で使われたものが原型です。映画業界では40年代にはもうトランスクリプションを捨てて、より音質の良い光学録音に移行していますが、時間に追われる放送業界では、いちいち現像の必要な光学録音は採用できませんでした。トランスクリプションは、録って出すだけなら、放送には充分な品質を持っていましたが、編集となるとお皿からお皿へのダビング編集ですから一気に音質が劣下してしまいます。NBCはこれを嫌って生放送にこだわったのですが、それをやってしまったABCには案の定リスナーからの苦情が殺到し、スポンサーは降りる寸前だったのです。

 一方、1946年に同じくドイツからフランクフルト放送局の2台のマグネトフォンを35個の荷物に分けて本国に送ったジャック・マリンは、3-4ヶ月かかって組み立て直し、パートナーのビル・パーマーと共に、西海岸のあちこちの放送局やレコード会社、スタジオに売り込みに回っていました。東のレンジャー、西のマリン、というわけです。この話に興味を持ったIRE(現在のIEEE)はマリンを1946年5月16日のIREの分科会に招きます。場所はサンフランシスコの KFRC 局。マリンとパーマーにとっては、大勢の聴衆を前にした初めてのデモでした。こういったデモは1回だけではなく、同年10月にもハリウッドのMGMスタジオでおこなわれ、いずれも大反響でしたが、マリンとパーマーには、テレコを大量生産できるほどの資金はありませんでした。この第1回のデモ会場にいたのが、当時 AMPEX の得意先にいたハロルド・リンゼイです。AMPEXは、1944年に設立された会社で、社名は、社長の Alexander M. Poniatoff の頭文字にExcellence(優秀・卓越)という単語をくっつけて作ったとか。戦時中は航空機用モーターなんかを作っていたんですが、戦後はそのモーター技術を活かした製品で、できればプロ・オーディオの世界に参入したいと思っていたのです。リンゼイから話を聞いた AMPEX は、1946年12月、テレコ開発に踏み切り、マリンとパーマーの協力を得た上で、リンゼイを開発チーフとして雇います。しかし、開発には莫大な資金が必要で AMPEX と言えど簡単に調達できるものではありませんでした。

 そんな時に、ビング・クロスビーから声がかかったのです。1947年の7月、ビング・クロスビーの元にデモに行ったマリンは、その年の8月から、その後26回分の放送の録音と編集をひとりでこなすことになります。まだ AMPEX のテレコはできていませんから、テレコは2台のマグネトフォンだけ。最初の放送は47年10月1日のことでした。ただし、最初のうちABCの技術陣はテレコの信頼性を疑い、完パケ・テープを一度トランスクリプションに落として放送したのです。しかしビングはテレコの将来を理解していました。AMPEXが、開発資金として5万ドル必要だ、とビングに言ったところ、ビングはあっさり小切手を切って渡したそうです。このラジオ・ショーで1本につき3万ドル、その放送料として全国のラジオ局から計4万ドル、合わせて週に7万ドルの大金を得ていたビングには大した投資ではなかったのです。しかし、こういうスポンサーがいなかったら、テレコの普及は確実に数年は遅れていたでしょう。ちなみに、初期のAMPEXの社員の中には、当時16歳のレイ・ドルビーもいました。もちろん、後にドルビー研究所をおこし、ドルビー・ノイズ・リダクションを世界中に広める事になる、あのドルビーです。

 AMPEX 初のテレコ #200 は47年10月に発表されましたが、実際の出荷はその半年後。シリアル・ナンバー1番と2番は48年4月にビングに納品され、続いて12台の #200 が ABC に納品されることになります。このAMPEX #200は、元になったマグネトフォンに比べてはるかに巨大なシロモノで、当時としてはえらく高い機械ですが、計112台が売れたそうです。AMPEX は続いて49年7月に#300を売り出し大ヒット。全米の放送局やスタジオに納められました。その後の各社のテレコは、多かれ少なかれこの#300をベースにしています。テレフンケンがテレコのオリジネイターとするなら、AMPEXは現在に至るテレコの原型を作ったと言えるでしょう。#300シリーズはさまざまなバリエーションを生み、実に約2万台が売れたそうです。

 もちろん、AMPEX初期のテレコの回路はすべて真空管で、その後のオーディオ回路の教科書にも載るほど有名なものですが、手元にあるAMPEX #300の回路図では真空管の使い方などかなり荒っぽくて、12AU7を295Vで使っていたりします(あれって最大定格300Vくらいですよね?)。しかしこの #300のマニュアルは、回路動作の説明まで含む懇切丁寧なもので、テレコの教科書として重宝されたのです。

●テープがなければ始まらない

 マリンが持ち帰ったのはテレコだけではなく、50本の BASF 製磁気テープも一緒でした。このテープは、BASF初期の(そして現在の)磁性体塗布タイプではなく、1944年に製造を開始した新型で、ベース・フィルムの材料に磁性体を混ぜてテープを作る磁性テープとでも言うべきものです。合成ゴムと磁性体を混ぜたゴム磁石が今でも事務用品として売られていますが、あれのテープ版なわけです。戦時中ゆえ製造工程の簡略化が目的だったようですが、おかげでテープ厚のばらつきがひどくて編集には苦労したそうです。そんなテープでも、ビングの録音の編集をしたマリンには、たった50本しかないかけがえのないテープですから、放送が終わると編集箇所を剥して、テープ厚を揃えてまた元のリールに戻す、という作業の繰り返しでした。また、編集と言ってもまだスプライシング・テープもないんですから、セロ・テープで貼るしかありません。これは放って置くと糊がはみ出してくっついてしまうので、編集箇所にベビー・パウダーをまぶしてから本番の再生に臨んだそうです。

 実は磁気テープはすでにアメリカでは作られていました。戦時中 Brush が海軍からの依頼でテレコの開発を進めており、そのためのテープをミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチャリング、すなわち 3M に発注していたのです。海軍では、Uボートの無線の傍受記録に使うつもりだったそうですが、開発が終わる前に戦争が終わっていまい、海軍からのオファーはキャンセルされてしまいます。そこで Brush は Sound Mirror BK-401 としてテレコの市販に踏み切り、これに合わせて 3M では1947年に紙ベースのScotch #100を売り出していたのです。ただ、#100 は BK-401 しか念頭になかったので、マグネトフォンやAMPEX の試作品にはうまく合いませんでした。だいたい、3M の研究室にすらテープ・レコーダーはなかったのですから、他のテレコとの相性など分かるはずもありません。そこで改良が続けられ、1948年、アセテート・ベースのScotch 111が出現します。これでようやくテープ編集者の苦労も軽減されることになるのですが、テープの生産量は充分とは言えず、どこの放送局でもテープは使い回しだったので、当時の番組で内容がちゃんと残っているものは残念ながらごく僅かです。

●レコード業界では

 一方レコード業界では、コロムビアが終戦直後にルクセンブルクから(旧式)マグネトフォンを、その後にAMPEXと英EMIからテレコを入手していたようです。おそらく、このルクセンブルクのマグネトフォンは、前述のレンジャー氏がデモ用に持ち込んだものでしょう。で、結局AMPEXの製品が一番性能が良かったのでEMIのテレコは返品したとか。そのため、コロムビアは早い時期からテレコによる録音ができて、47年半ばの段階では、テープ録音に切り換えてしまい、48年のLP発売では、新譜LPの40%がテープ録音だったそうです。そうそう、テレコの普及は、LPの普及とも密接な関係があります。片面4分そこそこのSPならいざ知らず、片面20分にも及ぶLP用の録音をダイレクト・カッティング(編集不可能!)するのは、演奏者・エンジニア双方にとって荷が重すぎたのです。もっとも、テープ録音になってもSPは急になくなったわけではなく、1950年代末までは作り続けられています。なんせ1958年の段階でも、SPの売上げ670万枚に対してLPはまだ200万枚に過ぎないのです。これが、ステレオLPの出現もあってその後2年ほどで交代することになるわけです。英EMIが SP の製造を終了したのは1961年になってからでした。

●AMPEX に続け!

 テレコ商売を始めたのは AMPEX や Rangertone ばかりではありません。テレコが商売になると分かったら、それまでワイヤー・レコーダーなどを作っていたメーカーも、こぞってテレコ製造に乗り出します。Magnecord、Revere Camera、Pentron、Webcor、Wilcox-Gay、Prest、Fairchild など、1950年には24社ものメーカーが名乗りをあげました。中でも Magnecord の PT-6 は初のポータブル型と価格の安さでヒットしました。Magnecord はステレオ・テレコの先駆的メーカーでもあります。

 一方イギリスに持ち去られたマグネトフォンはEMIの手に渡り、BTR(British Tape Recorder)の原型となります。米コロムビアに送られたのはおそらく BTR の試作機でしょう。BTRは1949年にEMI アビー・ロード・スタジオに納品され、その後イギリス全土で使われるようになります。ビートルズ初期のレコーディング風景でも、まだBTR のテレコの姿を見ることができます。ヨーロッパでも、中立国だったスイスの STUDER がテレコに関わり始めたのは、1949年、アメリカから輸出されたテレコの改造からでした。

 日本では、1950年にソニーの前身、東京通信工業(東通工)が出したG型テープコーダーが最初の市販テレコです。また東通工は同年に SONI-TAPE という商品名で紙ベースの磁気テープを出していますが、試作段階では工場に張り渡したテープに人間がスプレーで磁性体を塗布して歩くなど、苦労を重ねたようです。ソニーのサイトはこういった歴史物語が充実していますから一度覗いて見るといいでしょう。東通工はプロ用テレコでも有名で、私も1台バラしたことがありますが、メカも回路もモロにAMPEXでした。アンプ部は改造途中で放棄されたような状態だったので、とりあえず生きているトランスポート部からヘッド出力を直接取り出して、OPアンプで適当に組んだNAB EQで再生したところ、30年近く経ったマシンから実に安定感のあるしっかりした音が出てきたのにはちょっと驚きました。

●アナログ・テレコの現在と未来

 最近は、ご承知のようにアナログが再評価されていますが、エフェクターはともかくテレコまでアナログ、というのはメンテを考えるとなかなか難しいようです。アメリカの場合、ナッシュビルではデジタル・マスターが主流で、西海岸ではアナログ・マスターが主流、東海岸は50/50だそうです。もっとも、西海岸ではアナログ・テレコを徹底的に改造して使っています。見かけは STUDER や AMPEX でも、もう中身は別物なのです。特に最重要部品のヘッドは、JRFやSAKIといったヘッド専門メーカーが新設計の交換用ヘッドを出していますし、ここんところの流行りは Flux Magnetics 製のヘッドで、かのバーニー・グランドマンも愛用しています。つまり、常に「現用機」としてリニューアルを続けているから現場で使えるわけで、単にアナログだったらOK、ってわけじゃないのです。

 そしてもうひとつ、アナログ・テレコが生き延びている理由には、将来のデジタル記録フォーマットが不透明であることが挙げられるでしょう。先が見えないならば、一番確実なのは良質なアナログ・テレコで録っておくことです。今後、デジタル機器にどんな改良があっても、あるいはどんなフォーマットが出ても、アナログで残しておけば、その時々の最良の機材で復刻できるわけですから。もちろん一方で、アナログゆえの経年変化というデメリットは覚悟しなければなりませんが。

 クリスマスの定番、ビング・クロスビーのホワイト・クリスマスが聞こえてきたら、ちょっとそんなアナログ・テレコの未来を考えてやってみてください。
 だば、また!
 

目次に返る